NHKディレクター 豊田研吾さんの話を聞いた

先日、愛知県名古屋市名東区にある「戦争と平和の資料館 ピースあいち」でのイベントに参加してきました。


 <沖縄慰霊の日特別企画>
  6月18日(土)13:00〜14:00
  NHK作品の上映とディクターの語り
  集団自決”戦後64年の告白
  〜沖縄・渡嘉敷島
  (NHKTV 2009年6月22日放送)  

1.映像について
・金城さん兄弟(兄:重栄さん82歳、弟:重明さん80歳)の証言を中心に構成。
・沖縄の渡嘉敷島には、1945年3月27日に米軍が上陸。→日本軍は北部の山中へ移動。→追うように住民も北部へ→翌朝、手榴弾が住民に配られて→村長などの「天皇陛下万歳!」の掛け声とともに手榴弾が爆発。
・しかし、多くは不発。→地獄絵図のように、なた・木の枝などで殺し合いが始まった。
・金城さん兄弟(当時18歳と16歳)は、手榴弾をもっていなかったので、両親・9歳の妹・4歳の弟の家族4人を自分の手に掛けた
渡嘉敷島では346人が「集団自決」をした。毎年3月28日には慰霊祭が行われる。


・弟の重明さんは、島を出て、19歳でキリストの洗礼を受け、30歳で牧師さんになる。戦争体験を語る活動をされている。戦後、兄とはほとんど合っていない。


・兄の重栄さんは、戦後、民宿を経営。島の人から避けられたが、島を出なかった。64年間「集団自決」のことは一切、話をしなかった。今回のNHKの取材で初めて話をしたそうです。
・戦争で家も写真も焼けてしまい、家族との思い出は、だけ。重栄さんは畑にいることが多い。
・戦争当時は、「捕虜になったら死ぬしかない」と思っていたが、戦後それは間違いだったことに気がついた。
・周囲の強い薦めで結婚し、孫もできた。しかし、孫の顔を見ると、幼い妹・弟のことを思い出す。


●「国のためといっても、人間が死んでは、何のためになるんだ。そういう思いなんです。」と、ゆっくり噛みしめるように言われた言葉が印象に残りました。



2.豊田さんのお話
・「誰が手榴弾を配り始めたのか?」「軍の伝令が来て、村長に何か耳打ちをしたという証言はあるものの、どんな内容だったのか?」などは、取材をしても結局、分からなかったそうです。よって、軍が住民に自決するように命令(狭義の軍命 ※)したのか?しなかったのか?は証明できないようです。
(※ 広義の軍命:教育などを含め、当時の国家が人々に何を命じていたのかどうか)
・この番組を制作するにあたって、住民側だけでなく、軍の側の人にも取材しようとしたそうです。しかし、すでにほとんどの人が亡くなっており、1人だけ話を聞くことができた。もっとも、軍国主義そのままの人であり、当時を冷静に振りかえっていないような証言だったので、番組には使えなかったそうです。

・2009年に放送した後、“集団自決”というタイトルには矛盾があるのではないかという指摘があったようです。すなわち、番組的には実質的に軍の命令があったのではないか?というスタンスなので、むしろ“集団強制死”というタイトルの方がふさわしいのではないかという指摘です。この点については、今でも制作者サイドでは議論をしているそうです。


渡嘉敷島の「集団自決」では、家族を手に掛けたり、他人から頼まれて手に欠けた人は金城さん兄弟以外にもたくさんいる。しかし、その一方で、手榴弾をわざと不発に見せかけて、その場を逃げた人もたくさんいる。「命令」に従わなかった人もいるのが事実です。だからといって、当時の教育などの状況(広義の軍命)を考えると、前者の人たちを全面的に批判することは難しいと思います。
●戦争当時の人の行動を問題にするよりも前に、このような「集団自決」をするに至った原因を問題にすることが大切だと思います。すなわち戦争をしなければ「集団自決」も発生しなかったはずです。戦争体験者の方々が、「戦争は絶対にしてはいけない。」と強く語る意味がよくわかりました。