戦争体験を聞かせていただいた

昨日、お二人の貴重な戦争体験を聞いてきました。
甥っ子の夏休みの宿題で「戦争体験を聞いた感想文を書きなさい」というのがあるそうなので、甥っ子も一緒に聞いてきました。

 8月27日(土)14:00〜15:30
 豊田市産業文化センター 小ホール
  『苦闘の引き上げ 遠かった祖国日本』鈴木令子さん(75歳)
  『私の軍隊経験と憲法9条の思いを子らに』加藤春元さん(87歳)


<鈴木さんの体験談の要旨>
 鈴木さんは、満州瀋陽で生まれ、終戦当時は4年生だった。「ソ連が攻めてくる」ということで昭和20年8月12日に、3日分の食糧や最低限の生活用品を持って、鉄道に乗り、南へ逃げた。
 途中、平壌では民家のお世話になったが、すでにソ連に占領されていた。そこでとても怖い思いをした。ロスケ(ソ連兵の呼び名)が家に入ってきて仏壇の骨箱をひっくり返して物色したりした。女性はロスケに連れていかれてしまうので、断髪・男装をしていた。
 食べ物は十分になかった。鈴木さんのお母さんは、鈴木さんやその兄弟に、自分の分を与えていた。子どもの食べた残り物を食べたり、牛乳1本程度しか飲んでいないので、お乳は出ない。産まれたばかりの妹は餓死してしまった。
 さらに仁川まで歩いて行き、アメリカの舟に乗って日本へ帰ったそ。しかし、鈴木さんの弟は、栄養失調だった。上陸後すぐに病院へ行く。弟は、茹でたじゃがいもをもらい、大事そうに握っていた。でも食べる力もない。上陸当日に弟は亡くなってしまった。
 

●最後に鈴木さんは、子、孫の代まで絶対に戦争は起こさせてはいけない。と強く語られていました。戦争中、二人の肉親の死を思い出して、つらい体験をこうして人前で話すことは、並大抵のことではないと思います。それでも私たちに戦争の体験を話していただいた鈴木さんには、感謝の気持ちで一杯です。どうもありがとうございました。私も戦争が起きないように、自分のできることをやっていきたいと思います。


<加藤さんの体験談の要旨>
 加藤さんは、師範学校在学中、徴兵検査に合格する。学生だから徴兵は猶予される。しかし、学徒動員で第7師団旭川連隊へ配属になる。
 上官たちは、はじめとても優しくしてくれた。軍隊はとても居心地の良いところだと思った。しかし、すぐにイジメが始まった。ある日、自分の班の部屋が荒らされていた。「どうしてお前たちはこんなにだらしないのか!!」とビンタをくらった。理不尽だ。軍隊とは、こんな所なのか...とがっかりした。
 毎日、匍匐(ほふく)前進の訓練。それは、爆弾を背負って敵に飛び込む人間兵器としての訓練だった。
 上官から「この戦争は勝てると思うか?負けると思うか?」と聞かれたことがあった。「勝てるはずがありません。」と答える訳にはいかない。だから「わかりません!」と答えた。「勝てます!」と答える人はだれもいなかかった。
 ヒロシマナガサキに原爆が落とされたことは、新聞で見て知っていた。原爆に対する訓練もした。「新型ーーーー!」という号令が掛かると、伏せる練習をした。「目を閉じ、耳を閉じ、口を閉じて、伏せれば大丈夫」と信じられていた。
 結局、加藤さんは戦場には行かずに、終戦を迎えた。残務整理をして地元に帰った。


●加藤さんは、「陸軍には軍人勅諭という立派なものがあるのに、どうしてこんなに陸軍は堕落してしまったのか?」と言われました。五・一五事件やニ・ニ六事件を経て、軍が政治に関与し始めたことが原因であると、半藤一利さん著「昭和・戦争・失敗の本質」を参考にしながら分析されていました。
 戦後、憲法9条ができたが、「永久にこれでいくべくいだ」と主張されていました。戦争の時代を体験された方が、憲法9条を大切にする気持ちがとても伝わってきました。
 最後に加藤さんは、「軍隊の誉れではない、悲しい事実の報告です。」いう言葉で締めくくられました。悲しい事実を人前で語るということは、決して楽しいことではないと思います。それにもかかわらず、話して下さって、どうもありがとうございます。


NHKなどでは、戦争体験を語る映像をDVDなどに残すことをされていますが、直接に話を聞いた方が、より強く心に響くことは確かです。戦争を体験された方々が高齢となられているので、これからだんだんとお話を聞く機会が減ってきます。関心のある方は、積極的に足を運んで、是非とも「直接」お話を聞いてほしいと思います。