●ヒロシマ原爆の体験者の語りを聞いた

 昨日、愛知県名古屋市名東区にあるピースあいちにて14:00より戦争体験をされた方の語りを聞いてきました。
 お話して下さったのは、鬼頭駿(きとうすすむ)さん。現在82歳。
 全部で50人くらいが参加し、小学生も10人くらいいました。


 鬼頭さんは、ご自身で書かれた複数の絵を紹介しながら以下のように話されました。

・養成工として採用されて名古屋の工場で働いていたけど、空襲で工場が焼けてしまい、昭和20年3月に広島の工場で働くことになった。


・広島に来た3月から8月6日まで、広島では空襲警報は一切なかった。日曜日には厳島神社へ行ったり、アイスクリームを食べたりして普通の日々を送っていた。


・8月6日はいい天気だった。工場にいたら(爆心地から5km地点)、B29が一機だけ飛んで来た。以前、名古屋でも同じようなことがあった。一機だけ来て、翌日にB29が沢山来て空襲があった。だから「明日、空襲があるぞ」と思った。


・するとその時、南の窓から閃光が。次に衝撃と爆風があった。空を見ると巨大な真っ赤なドーナツ状の雲が浮かんでいた。キノコ雲は有名だけど、キノコ雲になる前には、赤かった。赤いドーナツ状の雲から1分たらずで、キノコ雲に変化していった。


・工場の従業員は、軍の管理下で、被爆した市民救援に行くことになった。救援場所へ向かう途中、ボロボロの人たちとすれ違った。やけどした人もいた。その人は、ひじから手の先を地面と平行にして上げたままにしていた。(ぶらんと手を下げると痛いから)


・途中で黒い雨が降ってきた。2,3分雨にあたった。「黒い雨にあたってはダメだ」という人がいたので、雨にあたらない場所に避難した。


・救援場所に着いたが、手ぶらで救援に向かったので、水を欲しがる人たちに水をあげることもできない。軽傷の人を川へ誘導してあげた。


・夜になると悲惨な光景が目に浮かんできた。とても怖い。翌日から9/3まで救援の仕事はあったが、体調が悪いという理由で行かなかった。


・大きな爆弾が落ちたのだから、中心地には相当大きな穴が開いているだろう。見てみたい。と好奇心が湧いたが、結局行かなかった。


・当時の強烈な記憶として残っているのは「匂い」だ。家屋が焼けた匂いや、人間がやけどをした部分が化膿した匂いなど。


 質問コーナーでは、鬼頭さんが悔いるようにこんなことを言われました。

「川にまでたどり着けない人は、防火用水の水を飲んでいた。どうせ死ぬのであれば、もっと水を飲ませてあげればよかったと、今でも懺悔をしています。」


●とても生々しいお話を聞かせていただきました。キノコ雲の前は、赤いドーナツ状の雲があったということは初めて知りました。原爆投下後の広島の町は、「怖くて救援の仕事に行きたくなかった。」と当時15歳の少年であった鬼頭さんが、感じるくらい相当悲惨な状態だったのだと思います。


●鬼頭さんの当時の同僚には、結核甲状腺に障害が出た人もおられるようです。鬼頭さんご自身は、これまでガンなどの健康障害はないそうです。家族にも、結婚する時にも自分が被爆したことは、長年黙っていたそうです。体には問題はなくとも、一番身近な人に、本当のことを言えない心の苦しみを経験されてこられたのでしょう。


●戦争は、人に何年もにわたって苦しみを強いることが、よくわかりました。戦争はもう二度と起こしてはいけないと強く思いました。