南京大虐殺 名古屋証言集会で幸存者の証言を聞いた

 南京大虐殺 名古屋証言集会
 2011年12月10日(土)  14:00〜16:30
 椙山女学園中学校・高等学校 北斗館2階
  1.映画『南京の松村伍長』製作者 松岡環さんのことば と映画上映

  2.証言 藩 巧英さん(南京大虐殺の幸存者 80歳)

  3.講演 費 仲興さん(南京大虐殺の研究者 67歳)


 上記の証言集会に参加してきました。主に3つのプログラムから構成されており、いずれも内容の濃いものでした。その中でも特に印象に残った2.の藩(ばん)さんの証言を聞いて感じたことを書きたいと思います。

 私は1年前から平和についてきちんと考えるようになりました。戦争の歴史を知りたいと思い、戦争体験者のお話を聞きに行ったり、沖縄に行って米軍基地を見てきたりしました。しかし、これは日本人が「被害者」となった側の視点です。今回、藩さんの証言を聞いて、日本人が「加害者」となった側の視点で考えることができました。

 藩さんは湯山(とうざん)地区の人です。湯山は南京城の東約30kmのところにあり、南京城を攻めるために必ず通らなければならない場所とのことです。「南京大虐殺は無かった」という人もいるようですが、藩さんのお話を聞いて、確実にあったいうことがわかりました。
 「30万人」という数字が正しいかどうかは私にはわかりませんが、日本兵が残酷なことをした事実はきちんと受け止めるべきだと思いました。


 以下は、藩さんの証言の主な内容です。文章化するために一部補足してあります。
 藩さん→通訳さん→聴衆という過程があることや、私の知識の未熟などから不正確な部分があるかもしれません。またお話いただいた表現をそのまま書きましたので、残酷と感じる表現もあることをご了承願います。

日本軍が村にやってくるという情報があり、村人の多くは安全と思われる遠くの場所へ避難した。しかし、自分たちは、村のある家に他の家族とともに避難した。
昼食後、日本兵7人が来た。「タバコ、タバコ」と言っていた。外に連れ出され身体を検査された。タバコが無いことが分かったので、帰って行った。
私が庭で遊んでいたら、別の兵士5人がきた。銃剣を持っていた。
おじいさんが厠で用を足していたところ、ズボンを上げる間もなく殺された。
私が7歳の時のことだ。


慌てて家に戻った。他の家族たちは、はしごを使って中二階上って隠れていた。わたしが家に戻った時には、すでにそのはしごは外されていた。
私は隠れ場所を探した。カメに入ろうとしたけど、水が入っていたのでダメだった。
台所に大豆の粕が積んであり、そこにケガしたおばあちゃんと一緒に隠れた。
中二階に隠れていては見つかってしまうと考えたであろう父は、庭に飛び降りた。しかし、すぐに日本兵に突き刺されて殺された。いとこも同じように殺された。


日本兵が家の中を探しに入ってきた。天井を突き刺した。
扉の後ろに隠れていたばあちゃんは、「殺さないで!」と叫んだ。
日本兵は、単に外に連れ出したかっただけかもしれな。しかし、私の目の前でばあちゃんを殺した。
40歳くらいのおばさんと、その子どもも殺された。


日本兵が去って、皆がはしごで降りてきた。17人隠れていた。皆で安否確認した。私の家は父、いとこ、おばさん、おばさんの子供の4人が殺された。(おじいさんも含めれば5人か?)
日本兵は村の家に火を放っていったので、その火が避難していた家に移ってきたので、移動した。


すでに辺りは暗くなっていたので、どの方向へ逃げていよいかわからない。戦車がたくさんいるから裏道を歩くしかない。
小さな池があった。そこで村のリーダーらしき人が、私の3歳の妹を見て、「子供が泣くと、日本兵に見つかってしまう」と言って、母から妹を奪い、頭を池の水に沈めて溺死させた。母は泣くことすらできなかった。
山道に沿って逃げ延びた。母は妹の亡骸を捨て、私の手を握って歩いた。
山の方へ行こうとしたら、日本兵の声がしたので折り返した。


寺に着いた。すでに50人くらいが避難していた。お坊さんは「ここは寺だから、日本軍は来ない」と言ってくれた。
翌朝、母と私は食べ物が無い。他の人たちは、あらかじめ米を運んでおいたのでそれを炊いて食べていた。母はその人たちにお願いして私の食べ物をもらってくれた。
ここまで話すと悲しくなります。かわいそうだと思います。(殺された父親たち、生き残った母親や自分のことを思って言われたのでしょう)


朝、日本兵が来た。遠い親戚にあたる15歳の女の子が連れていかれた。その子は父親に救いを求めたけどだめだった。彼女の母親は「ついて行きなさい。殺されはしないから」と言った。夜になってその子はかえってきた。母親は喜んでいた。


食べ物を恵んでもらうことは恥ずかしかったので、昼は食べなかった。
しかし、夜には我慢できずにもらった。
母は食べ物を探しに行ってくれた。探すためには川を渡らなければならない。その川には日本兵に殺された中国兵の死体があり、それを踏んで川を渡った。野菜畑で、収穫の残り物のニンジンなどと持ってきてくれた。1週間くらい野菜などでしのんだ。


寺からさらに移動して洞窟へいった。洞窟は5つの部屋くらいの大きさがある。昼は見つからないようにそこにいて、夜になると自宅に戻った。
川の水は汚いので、煮炊きの水は、ため池の水を使った。しかしこれも汚い。母は、他人の食べ残しをおにぎりにしてくれた。
あるじいちゃんが、米をカメに隠していた。上の方はカビだらけだったので、下の方を食べた。少し楽になった。洞窟の生活は2か月くらい続いた。雪が降ってきた。外は寒くて出られない。
自分の家に戻ったが、焼かれていた。わらで簡易な家を作った。しかし、食べ物がない。
おばさんは、日本軍のところで働いていたようだ。米をくれた。
焼かれていない家に住んだりした。なんとか食べ物を見つけてしのんできた。


私が8歳になると、母と娘2人だと食べていけないから、母は嫁いでいった。私はその家から食べ物を貰った。(母だけが嫁いで、藩さんは一人暮らし?)


3月になると畑を耕すことができて少し楽になった。


●以上が、藩さんの証言です。当時7歳であったこと、74年も経過しているため、細かい点は、記憶が定かでないかもしれません。しかし「藩さんの目の前で人が日本兵に殺された」ことは確実な記憶だと思います。上記の証言を読んで下さった方は、その当時どんな状況であったかを感じ取っていただけたかと思います。

●藩さんは、腰も曲がっておらずとても元気な方です。日本へ来られたのは、今回が初めてだそうです。証言してくださいという依頼に対して、最初は断ったそうです。その理由は「日本は怖い。日本へ行ったら生きて帰ってこられなくなる」だったそうです。日本人に対する憎しみもあるでしょうが、恐怖心がとても大きいことがわかりました。子どもの頃に銃剣をもった兵士が自分の目の前で人を殺す光景を見れば、その恐怖が大人になっても消えることはないのでしょう。

 しかし、南京大逆殺の聞き取り調査をしていた費(フェイ)先生の説得もあり、「先生がそう言うなら」ということで、日本で証言していただくことになったようです。

 もっとも、日本へ来られて、まず大阪で証言された後「あと何日で帰れるのか?」と言われたそうです。藩さんにとって来日は決して楽しいものではなく、苦痛なことなのでしょう。そんななかで、忌わしい過去の記憶を思い出して、私たちに語っていただき本当に感謝いたします。ありがとうございます。どうぞこれからもお元気でお過ごし下さい。

●いつも戦争の体験を聞く集会の参加者は、ほとんどが年配の方です。しかし、今回は私(40代)よりも若い20代、30代の人も結構(2割くらいか?)参加されていました。こうした人たちとともに、南京大虐殺など学校教育では詳しく教えられないことを若い人たちに伝えてきたいと思います。